ポティ (Poti)
ポティ(グルジア語: ფოთი; Poti)は、黒海の東岸に面したジョージア(グルジア)西部サメグレロ=ゼモ・スヴァネティ州の都市. 人口は41,465人 (2014年調査). 日本語ではポチとも表記される.
黒海に面したジョージアの三つの港のうちの一つとなっている. この港からは、主にマンガン・トウモロコシ・材木・ワインなどが輸出される. ポティの近くではリオニ川が黒海に注いでいる. 都市の周囲は森林や湿原であり、後背地を持たないが、同国有数の港湾都市として発達している.
また、ポティにはグルジア海軍の司令部と主要な基地がある.
アルゴナウタイの物語の中では、この都市の周辺がイアソンの黄金の毛皮を求める旅の終着点であるとされる. ポティは紀元前7世紀の終わりごろから紀元前6世紀の初めごろに建設されたギリシアの植民都市「ファシス」に由来する. 考古学者はポティ近郊のパリオストミ湖水面下において、当時の遺物を発見している. その後、ミトリダテス1世によりイラン系の人々の国家ポントス王国の支配下に、紀元2世紀にはローマ帝国に組み込まれた.
後にポティはトルコの要塞都市となり、1828年にはロシア領となった.
古い硬貨が発見されており、シルクロードの宿場として5世紀ごろにはインド、中央アジア、近東や地中海地方からの交易品の売買が盛んに行われていたことがわかる.
1872年、ポティと中心都市トビリシ(ティフリス)間にジョージア初の鉄道が開通して海港が設けられたのち、1880年代に都市が発展した. それ以前の1876年の人口は3,026人であった.
20世紀初頭、ポティはマンガン鉱石の輸出によって目覚しい発展を遂げることになる. ジョージアは当時世界2位のマンガン輸出国であった. マンガンは重工業、製鉄業に当時必要であった金属である. ソビエト連邦時代には重要な海軍基地であった.
黒海に面したジョージアの三つの港のうちの一つとなっている. この港からは、主にマンガン・トウモロコシ・材木・ワインなどが輸出される. ポティの近くではリオニ川が黒海に注いでいる. 都市の周囲は森林や湿原であり、後背地を持たないが、同国有数の港湾都市として発達している.
また、ポティにはグルジア海軍の司令部と主要な基地がある.
アルゴナウタイの物語の中では、この都市の周辺がイアソンの黄金の毛皮を求める旅の終着点であるとされる. ポティは紀元前7世紀の終わりごろから紀元前6世紀の初めごろに建設されたギリシアの植民都市「ファシス」に由来する. 考古学者はポティ近郊のパリオストミ湖水面下において、当時の遺物を発見している. その後、ミトリダテス1世によりイラン系の人々の国家ポントス王国の支配下に、紀元2世紀にはローマ帝国に組み込まれた.
後にポティはトルコの要塞都市となり、1828年にはロシア領となった.
古い硬貨が発見されており、シルクロードの宿場として5世紀ごろにはインド、中央アジア、近東や地中海地方からの交易品の売買が盛んに行われていたことがわかる.
1872年、ポティと中心都市トビリシ(ティフリス)間にジョージア初の鉄道が開通して海港が設けられたのち、1880年代に都市が発展した. それ以前の1876年の人口は3,026人であった.
20世紀初頭、ポティはマンガン鉱石の輸出によって目覚しい発展を遂げることになる. ジョージアは当時世界2位のマンガン輸出国であった. マンガンは重工業、製鉄業に当時必要であった金属である. ソビエト連邦時代には重要な海軍基地であった.
地図 - ポティ (Poti)
地図
国 - ジョージア (国)
ジョージアの国旗 |
サカルトヴェロ民主共和国が1921年にソビエト連邦に占領され、ソビエト連邦構成共和国のグルジア社会主義共和国(正称:サカルトベロ・ソビエト社会主義共和国)とされたが、ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年4月に共和国として独立を回復した.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
---|---|---|---|
GEL | ラリ (Georgian lari) | ₾ | 2 |